ブックタイトルac_cho_0004_takanabe
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古代・中世いわゆる耳川合戦といわれるこの戦いの勝利によっ配機構て島津氏の日向支配が木絡化する。天正五年十二月から耳川合戦までの約一年間は「十日ニ日州の本城一一被懸付、同十一日二日ニハ御兵儀も相済て日向の郡内諸外城ニ御番兵を被遣」(長谷場越前守自記)とあるように戦時体制がとられ、その一つとして財部(高鍋)城には、川上忠智を配置した。耳川合戦後は、日向統治の組織整備に重点が置かれたようである。したがって、耳川合戦後には財部滅の地頭も鎌田政心に変わっている。天正七年ごろの島津氏の日向支配の大勢は第2ほんごう表のようである。日向は鹿児島直轄支配の地と島津兵庫領の真幸、北郷領都城、飲肥、福島、宮崎、家久領佐土原に分けられ、宮崎城の上井覚兼の統轄下に入るのはいわゆる山東宮崎で、北の三城(門川・塩見・日知屋)から南は田野、西は飯田(高岡〉・綾までで、財部も中に含まれていて、それらの郷邑は外城と呼ばれた。島津氏の日向支第3編各郷邑には古くからの土着の国衆がいたが島津氏は、このような国衆の支配が日向支配のできいかんにかかっているので、特に意を用いた。その基本的方策は二つあって、一つは力の支配であり、もう一つは「(天正六年正月九日〉此日伊東物内都於郡・佐土原を始め、滅々の木衆無=余ばかり義一者百人計、薩隅之外城へ五人十人宛覚倍させらるべき由談合也」(日とみえるように、州御発足日々記〉のちに島津領内に広くみられたように、土着の国衆をほかの外城へ移すという「移衆」の方策をとっている。そのねらいは、それぞれの地方で農民層を動かす力のある土着の武士層を給人として他所に移して、所領を与え古くからの土地との結びつきを断つというねらいを持っていた。島津部霊園Eと島津氏時代の財部外斌衆がどの程度いたか明らかでないが、外域の地頭は、その支配下の外城衆(所衆Rオ衆向を治めるだけでなく、九州制覇の戦いの中で、特に戦いが、北九州に拡大する中で難しい問題が多くあり、上井覚兼日記によると財部でもさまざまなことがあった。第2表〆'ーーーーー、、向日塩知川屋克/"ーーー』ーー一一』一一ー----室f~財高その田佐部城他ヘ海江田/宮崎(内地頭四人)という意〉を指揮して、鹿児島の島津氏に対して1戦いのときの軍役、征服地の番役、1鹿児島殿中の御番役、1寺社の造営負担、1守護の命による出銭、1そのほかの公役など果たさな130ければならなかったし、また自分の領内の1諸普請や1地域祭神の勧請を行って、,-、Uふれ(「戦国大名島津氏と地頭」〉。島津氏の日向支配は、日天正十二年六月、島津義久は、日向高城において耳川合戦で戦没した豊後衆の七回思大施餓鬼の施行を命じ、命を受けた上井覚兼は財部地頭鎌田政心と高城地頭山固有信に準備を命じた。ところが七月に入って、財部の鎌田政心が、施餓鬼の費用調達について、財部衆である「屋敷持」の広田某が、かねてから気ままな行動をし、軍役にも従わないなどあって困難だ、と上井覚兼に愁訴するに至った。上井覚兼はさっそく関右京亮を派遣して、広田某の所領を没収させた。これ以外にも財部衆の不満はあったらしく、高城の山田有信とも相談させたりしたが、結局こ