ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

ac_cho_0004_takanabe

起こしたのを受けて、南下の軍をおこした。四月には、島津氏にくみした土持親成の県(延岡〉を攻め、これを滅ぼし、宗麟自身は無鹿(牟志賀)に本営を構え、更に大軍を新納高城へ南下させた。新納石城(木城町石河内)には長倉祐政、山田宗昌など伊東氏の残存勢力数百人が、ここによって島津氏に抵抗した。攻防一O余目、島津氏はようやくこれを落とした。三月には、海江田、内海などの者が逆心を企てた(日州御発足日々記〉。かえりちゅう九月には、穂北で返忠の者が出た(大友御合戦御日帳写)。十月には大友義鎮の日向南下に応ずるように、三納(西都市)城下の地下人一千余人が謀反し、地頭伊地知式部太輔と衆中を殺し、平郡から都於郡城に迫る事態が起こった。島津氏は北郷時久らの援軍で反攻し、ようやく川原田道場光大寺に叛徒を追い込め五OO人を切った(島津国史)。当時、島津義久は大友軍に対すべく、鹿児島からの船中にあったが、三納城下地下人が背いたという知らせに色を失い、高原に着いたとき、乱鎮定の報を受けてようやく安培したという。このように戦国の武将たちが最も恐れたのは、地下人(在郷の武士階層に率いられた農民など)の謀叛であった。時あたかも新納高城を中心に、大友義鎮の軍との緊張が高まっているときであった。島津氏は大友軍の南下に対して、新納高城に山田有信、財部城(高鍋)に川上忠智、佐土原城に伊地知正真を置いて、固くこれを守らせてい室町時代た。大友軍の接近とともに佐土原城にあった島津家久、都於郡城の鎌田政近など島津方の将士が高城救援に向かったが、大友軍は民家に火を放って百余戸を焼き払ったという。高城は山田有信以下三、000人(西落野史〉が、大友軍に固まれ、孤立した。十月二十七日、島津義久は鹿児島から紙屋に達したが、まず重臣の伊第5章集院忠棟と上井覚兼を佐土原に派遣し、樺山兵部を助けさせた。十一月朔日、義久は佐土原に着いたが、連日の雨で、山田有信の求援にも援軍が出せないありさまであった。九日になって、島津忠平・同征久・伊集院忠棟・土井覚兼らを財部(高鍋)に集め、軍評定が聞かれ、四、000の軍兵を三つに分け、大友軍に対することになった。十一月十一日戦いが始まった。この日、義久は根白坂に陣を構え、忠平は築瀬口に伊集院忠棟は折瀬口に陣をしき、大友軍と対峠した。十二日早朝、大友軍の先鋒が高城川を渡り島津軍を攻撃し、月輪下津において反撃した本田親治・北郷蔵人は討死した。大友軍がこの勝利に、島津軍を深く追うところをみて島津忠平・征久は築瀬の横手から大友軍を攻め、更に高城内の山田新助の寧も打って出たので、大友軍は三方から攻かさめられる形となり、混乱に陥り、折からの雨で水嵩の増した泥沢に退路をはばまれて、多くの死傷者を出した。この戦いで臼杵統景・蒲池宗雪・竹田紹哲・吉岡鍛直など宗麟旗下の名のある将土は討死し、野別府の原野を耳(美々)川まで敗走した。日向記は「二千余ノ戦死也、六ヶ国ノ軍兵共或ハ庇ヲ蒙リ山ニ入、野原一一伏テ死モ有、或ハ戦場ヲ遁レテ三極路/事ナレハ刀裳ヲ剥トラレ飢寒-一死モ多ヵリケリ」と述べている。十三日、島津征久は、日知屋・塩見・門川・山陰・坪谷・田代を再びよ手中に収めその後、県(延岡)には土持氏を再びここに拠らせた。宗麟は、味方の敗戦の報に、すぐ豊後に向かったというが、敗戦の原因には、従来から、宗麟自身に原因を求めるもの、作戦にその因を求めるものなどがあげられている。日向園内では都農大明神(都農神社)の「天正年中大友家高城迄出陣之節、社堂縁起共焼失」とみられるように豊後や日向国内の寺社焼打の神罰とするようなものまである。129