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概要

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古代・中世第3編文亀二年に木野瀬に瑠璃山慈思寺(開山実祐)、永正元年には鴫野に大仙寺(開山妙光院宥秀)、翌年に持田の善福寺が覚正院によって中興された。享禄年中に松本に瑞光山宝福寺(開山照屋禅師〉、永禄元年には蚊口浦に光福寺(開山順西〉、同五年には東光寺跡にある「十=一仏板碑」(町指定文化財〉が建立されている。また同九年に中鶴に医福寺(開山覚阿)、天正元年には持田に長園寺(法印伝秀〉が建立されている。このように各所に寺が建立されたということは、その規模は別としても領主の奨励というだけのものではなく、これを信仰し、支える人々のこの地にいたということを示している。伊東氏時代の遺跡第四節島津氏の財部支配天正五年、伊東義祐が島津氏によって、日向を追われてから天正十五年、豊臣秀吉による九州分封までの一0年間は、鹿児島に本拠を置いた島津氏が、る。日向全域、したがって財部(高鍋)をも支配した時代であ、128東光寺跡十三仏天正五年十二月、これまで日向の平野部を中心に四八外城に勢いをはっていた伊東氏は、島津氏によって日向山中を豊後に大友義鎮を頼って逃れ、諸外城の諸将はほとんど何の抵抗もなく相次いで義久に降った。「島津国史」によれば、わずか二O日にも満たぬ聞に、西の野尻から北の三城(日知屋・門川・塩見)まで、日向の中原全域が島津氏に降った。特に三誠については、伊東氏が頼みとする大友義鎮の臣佐伯入道宗天が、その三城主に書を送って、佐土原城、が落ちてもまだ=一城が残っておればと頼りにしていたところで||これは島津氏に通じている県土持氏を圧迫するためにも必要であった||あったが、これも島津氏の手に落ちた。「日向表ハ悉ク島津ノ領知ト成シカハ伊東譜代ノ侍共勢ヒ尽、力弱ツテ或ハ野村一族或三倍永ノ一党一一便テ島津ノ幕下一一ソ属シケル」(日向記)とみえ、これは、「伊東大膳大夫義祐三位入道暴虐日加月増ヲテハヲ会、是以野尻城主福永丹波守抱一一不意之大恨一、又野村氏亦福永氏之親戚、而知ニ虐v我之縦敵一、以ν故有一一v欲倒v才之心一」(薩藩旧記)といった伊東氏の内部の遺恨によるだけのものではないであろう。それはまた血族姻戚を中心とした組織の弱さといったものを示している。日向記にみえる日向の山中を落ち延びる伊東義祐主従一行はわずかで、その中には財部衆の名はみえない。戦国の世では、敗戦の将士は、常に新しい領主を求めて動き、その領主を選択する自由があったところに国衆の生きのびる道があり、それが戦国時代であった。財部衆もまた、新領主島津氏の幕下に入って生きのびるのである。耳川合戦天正六年、かねてから日向南下を企てていた大友宗麟は、門川・塩見・山陰・坪谷の国衆が島津氏へ逆心を