ブックタイトルac_cho_0004_takanabe
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第一章奈良時代以前古代児湯郡と高鍋地方古代の日向国は広く南九州全域を指している時期があった。和銅六年、日向国から肝杯・贈験・大隅・姶裸の四郡を分かって大隅国が分立した。「律書残篇」《養老五年(七一一一)j天平九年(七三七)ごろ成立》によると日向国は「郡数五、郷廿六、里七十一」とあり、その郡は詳しくは述べられていないが後の延喜式《延長五年(九二七)完成》にみられる「臼杵・児湯・諸県・那珂・宮埼」の各郡であろう。古代田向国奈良時代以前こゆこなかでも今の高鍋地方が含まれる児湯郡は「子湯・古AVこ品ザ由・古庚」と読まれ、日向国の役所(国街)がある国府(府中〉を含む日向の中心郡であった。薩摩・大隅両国が分立する八世紀初めまでは南九州一帯を治める拠点でもあった。児湯郡の歴史は古こゅのるがたく、そのもとになったと考えられる「児湯県」の歴史は、日向国の成立を更にさかのぼるとみられる。日本書紀の景行天皇十七年三月条に「日向国子湯県丹裳小野」とみえる。その年代設定には困難があるものの、ここにみる県(あがた)は、国・郡の制が整わない、少なくとも七世紀中期以前の大和朝廷支配下の地方組織と考えられ、これが児湯郡の母体となったものではなかったかと考えられる。県主(あがたぬし)と呼ばれる地方豪族に支配された児湯県のこの地方が、日向国の中心地としてかなり早くから大和朝廷の支配下に入ったのではないかと考えられていて、大和地方の古墳と共通する多くの古墳が存在することからもうなずはかりづかけるところである。高鍋持田古墳群中の第一の規模を誇る計塚は全長一I目JL.j暴県第1章二OU川で、その時代は西都原古墳群の主墳オサホ塚・メサホ塚の時代に相当するものといわれている。また持田古墳群中から発掘された多くの鋭は、この地に大陸文化との密接な関係を物語っているし、特に二五号墳から出土したという変形四獣鏡の縁には「火寛(鏡)」の刻銘があ〈つわり、早くから「文字」が伝わったことを示している。また杏葉・轡、などの馬具に関する出土品は、馬をめぐる高度の生活文化の存在をうかがわせる。このように五1六世紀にして高鍋地方は、現在我々が想像する以上に広い世界文化圏の中に既に入っていた。六世紀の半ばごろから、大和朝廷は全国各地に屯倉屯倉と牧(みやけ)を置いたが、日向に置かれた屯倉(三宅〉も児湯郡の中に含まれ、今も地名に残る西都市の三宅がこれに当たると考えられる。記紀(古事記と日本書紀〉によると、これよりさき五世紀もろかたのきみうしもるいかみながひめの応神天皇・仁徳天皇の御代、諸県君牛諸井の娘髪長媛は応神天皇に仕え、仁徳天皇の妃となったと伝えるが、その皇子の御領を御名代・御子〈さかべ代といい、それを耕作した農民を日下部といった。都万神社(酋都市)に伝わる由緒の中にこの神社に仕えたという古代日向の豪族日下部氏が農耕を始めたという伝承を持つのも興味深い。七世紀の初め、推古天皇が、大和の豪族蘇我氏をほめた言葉に「馬なたちまさひらば日向の駒、大万ならば呉の真万」とある。朝廷が諸国に牧場を定めて牛馬を育てたのが、文武天皇四年三月の「令下諸国定ニ牧地一放中牛馬乙であることから考えても、かなり早くから、臼向から産出される馬が朝廷でも注目されていたことを示している。この点からみても、この時期の朝廷と日向との密接な関係をうかがわせる。その馬の牧は、「原(はる〉」の多い児湯郡地方にもあったことがじゅうぶん考えられる。時代は下るが十世紀にできた延喜式には、日向国には馬牧・牛牧合わせて六つあり、その数は肥前とともに全国一である。これらのことは前にも述99