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概要

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割を考える際に、これを資料に利用したと言い伝える「日向五郡分帳」(三)では、児湯郡を一、三二八町とし、「比木方百町、郡司方百町、平田方百町、塩見方二十五町、野別府五十町」などとしている。高鍋は「比木方百町」か「郡司方百町」かのいずれか、または両方ともに属するのではないかと考えられるが、比木方は現在の木城町比木周辺と考えられ、少なくとも木城町大字椎木・高城・川原一帯であろう。とすると郡司方はどこに当たるか。比木方に接する小丸川下流域で、今の高鍋町の一部または全部を含む地域で、その呼称の由来は、新納郡司に縁を持つ土持氏の郡司職が及んだところに由来するのではないか。「日詔蚊口鵜戸宮書巻物一幅」の中の「神国神道之号」(宮崎県古公文書村社鵜戸神社御由緒調書所収)の一節に次のようにみえる。「〈前略〉韓神者到韓家而国玉件日中選也後世分コ割此地二玄二比木-一去二郡司一依子v今為ν二而比ι木方云-一室町時代第5章百町一郡司方云ニ百町一堺槍木厳嶋之街護山今也之地也」皆是外吐美神前後の文』掌が難解であるが、国王神の守護地を今は比木方百町といい、郡司方百町といっており、その境は椋木厳嶋之衛護峰としている。そして椋木峰がその図に示されてい島厳る。これは木城町と高鍋町の町境に近い、大字上江字青木と字野首の厳島神社周辺を指すと考えられる、これが作成された年代も明らかでなく疑問点も少なくないが、このように比木方百町と郡司方百町の境を大字上江字青木の南西に隣接する字野首鎮座の厳島神社周辺とする考え方があったことを示すといえるであろう。とするとほぼ今の高鍋町一帯を郡司方百町とみることもできる。この字野首の地は、地形図上でみると南側の丘陵が北を流れる小丸川に突き出る形になっていて、ここで小丸川南側流域の水団地帯は、西の木城町側(現在は一部分高鍋町内に含まれている)と東の高鍋側に分けられていて、このことから野首の地名は生まれたのであろう。それではさきにあげた土問帳ではどうであろうか。土田帳でも「新納比木方」「新納郡司方」「野別府」「平田方」「財部」としだいに細分化された呼称が使われている。特に「平田」(川南町)や「財部」は、のちの平田村や「財部村」(慶長六年新納院之内坪付帳之事平田家文章。の母体であることが考えられ、「ミミ」や「山ケ」も同様のことがいえる。更に「門」も最小の農村集落的性格をも持っていて、現在の地名と深い関係を持っと考えられる。〈切〉郡司方の「きり原門」「橋之口門」「大丸門」「ひはり田ノ門」、比木方の「長谷之門・大薗ノ門」「あらはる之門」、野別府の「一山の門」など郡司方、比木方、野別府の地域を推定するうえで重要な示唆を与えるものと考えられる。特に郡司方の門については、確認できるところでは、小丸川支流切原川の流域から、更に小丸川北岸下流域の大字持田を中心としたところである。「切原」は現在も集落として存在し(小字は柳丸・中村・古宮田)、だけ〈また「橋ノ口」は「竹鳩」の旧呼称、「ひはり回」は一O号線沿い、現まどめ在の真米付近の旧称、「大丸」は切原に接して小字「小丸」があり、大と小はいずれも「お」と呼ぶことができ、同一地とみることができる。125