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概要

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室町・時代番衆」とも呼ばれた。都於郡本城におけるこの三つの柱で統治されていたが、なんといっても領国統治の本命は外城組織にあった。伊東氏は、いわゆる「惣四十八みとれγ城」を持つといわれた。都於郡・佐土原の本城の下に=一五の外城、一切寄、七領主があり、また飲肥木城には三外城が属していた。外城は本放に対して出城または支城であり、その周辺地域に住む武士の統率単位でもあり、また周辺農村の土地と人との統治単位でもあった。外城の城主は地頭、あるときには代官とも呼ばれ、武士と農民の統治者であった。城主・地頭には、その地の有力な土着武士が任ぜられるのは極めてまれで、伊東氏の一門、または譜代の衆、惣領衆が任命された。財部地頭に任命された落合民もその例である。伊東氏の時代の外城地頭はだいたい世襲であったようである。そして外城衆に対しては、戦時の指揮統率、平常では目付的役割を果たしていた。外城衆は、伊東氏の家臣となるこあんどとによって、従来、その地に持っていた所領を安堵され、またあるときには給地を与えられ、土地を通じて主従の結びつきを強くし、その代償として、分相応に仕置に参画し、いざ戦争となると、主君のために戦いに参加した。伊東時代の財部衆には、有田・字国津・大塚・大寺・深田・柏木・塩月・山口・江三戸・須田といった名がみえる。しかし戦国時代のこのような所衆は、現在の我々が考える以上に、より強い保護者、領主を求めて移動したらしく、これらの層の移動がみられなくなるのは、兵農分離が進み、身分が固定し戦がなくなった江戸時代に入ってからである。外城は、伊東氏の勢力拡大とともに漸次置かれたものである。合戦によって領地を広げると、はじめは陣番を置き、次いで城番、更に城主・地頭と戦時体制から恒常的支配体制へ第5章外城と所衆と整えられた。陣番・城番には、軍事担当の譜代の臣をあて、次に初期の城主、地頭には、はじめはその地方の有力な土豪・国衆をあてたようであるが、しだいに譜代の臣に変え、その土地の有力者である国衆はなるべくほかに移すという策がとられたようである。それは、土地に密着した武士層は、農村の有力者でもあり、農民との結びつきも強く彼ら国衆の存在は、当該地頭にとって管内の農民の直接的支配に大きな妨げとなっていたと考えられるからである。国衆が農民と結びつき、いつ都於郡の伊東氏が派遣した城主・地頭に、更には伊東氏に反抗するかも知れない、という不安を断ち切る目的もあった。したがって、家臣の移住を、行える力が領主日伊東氏にあったかどうかが、伊東氏の存亡にかかっていた。伊東氏は、この体制をつくりあげることができないうちに滅亡したのではないかと思われる。伊東氏にとっては、島津氏との戦いに敗れたことよりも、城主・地頭層、外城に住む所衆の離反がいっそう致命的であったといえる。また城主日地頭は、農民にとっては、領主の直轄地や家臣に支えられた土地の管理者でもあり、諸負担の割り当て、徴収の責任者でもあった。そして一つの外城は、江戸時代の村で表せばおおむね三i五村程度の自然村落を取り込むほどの規模であった。財部地頭は、今の高鍋町全域と川南町のうち大字平田(当時は新納院平田方)までを支配したようである。高城地頭の支配地域は、今の木城町から石城(木城町石河内)を除き、今の大字川南と更に野別府征矢原(都農町)辺りまでを含んでした]21