ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

ac_cho_0004_takanabe

古代・中世第3編富田誠主計珂胡凶惜刊、王高城々、王新納石城、王塩見城主日昔屋城主門川誠主謁地五郎九郎落合民部少輯野村蔵人世長友章二部右松四郎左荷門尉福永新十部巾不良四郎右衛門前(京(東(来(毘果伊東氏支配機構第1:表の「惣領衆」と呼ばれる二集団があり、「老名敷衆」が領主の最高の補佐機関であった。建武年聞には「老名敷御一家ナトモ無御座候」(日向記〉とあり、まだこのような衆はいなかったようであり、また惣領衆から外城城主HH地頭その他の役目に任命された。義祐・義益時代には、120人の「御感状連判衆」と「御出頭人衆」、それに一四人の「御陣人数積衆」によって構成され、この=一つが都於郡城において領主を支える最高機関であった。一一人の「御感状連判衆」は主として伊東一門と譜代の臣である老名敷衆によって占められ、軍忠の感状に名を連ねるのみならず「軍評定」「国中ノ御仕置」のほか、合戦の場合は大将をも務めるもので、「談合衆」とも呼ばれていた伊東氏の最高評定機関であり、「軍事」と「国中ノ御仕置」(行政・警察・裁判〉の権能を併せ持つところに特色があった。「御出頭人衆」は、当主の側近にあって命令を執行する。「此衆其比日記付」とあり、伊東家に伝来した「大トジ」と呼ばれた日記の記録に当たったり、また「此衆役人衆」ともあり、事務上の処理をする奉行機関であったものと思われる。「御陣人数積衆」は、軍事担当で天文十年以来、島津氏との争奪が続く飲肥口、真幸口の陣番、城番の指揮に当たるもので、荒武氏を中心に重代の武将があてられた。荒武・山田・宮田・佐土原・野村・壱岐・川崎・清武氏らの名、がみえる。この役目は、多くが他領との接触点にあるところから、二O日交替(五番替り、三番替り〉の輪番制で、「二十日倉・深歳・稲津・落合・湯地・河崎・野村・宮岡・垂水・山田・荒武・津留・大脇で、このなかで稲津・落合・湯地・河崎・(呂田は祐持が伊豆から下向したとき、お供した衆といわれた。そのほか井尻・井戸河・小山田・石那回も東国からの御供衆と呼ばれていた。文明六年の薩摩・大隅・日向=一か国「行脚僧雑録」(陵藩旧記)に伊東祐実の「老名」に「稲津・野村・垂水・落合・宮田」があげられている。おとなし宮しゅう祐完時代には家臣団は「老名敷衆」と呼ばれる一門長老衆と主要家臣団