ブックタイトルac_cho_0004_takanabe
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衆に対して荒武三省らは山陰・坪谷・田代・水志谷・塩見・日智屋の衆を一味として、野別府原に兵を進めた。これに対して左兵衛佐方は、高城(木城〉衆を味方にし、財部衆をも味方にしようと働きかけた。野別府原で両軍が戦ったが、落合民部の財部衆はかねてから祐渚に心を寄せていたので、これが勝敗の別れめとなり、穂北など一Oか所の衆も左兵衛佐方から離れ、新納高城衆も祐清に降った。祐清は財部城に迎えられ、都於郡攻略を評議した。この紛糾の鎮まらないさ中に、米良一撲によって、専ら祐清を支えていた荒武=一省らが討死した。祐清はいったん出家していて、富田に引きこもっていたが祐吉が早世したので、富田被から佐土原へ入った。このように一五二01四O年ごろの伊東氏の内紛は、今の児湯郡東部を中心に展開する。特に祐清(義祐〉が惣領の座に落ち着くまでに、財部城の落合氏とその指揮下の所衆が大きな役割を果たした。隣の新納高城衆が、左兵衛佐方に加担していただけに、その意味は重く深い。財部衆の人数もあなどり難いものであったと思われる。伊東氏の支配体制も惣領の地位をめぐってたえず内紛が起こる要因を抱えていた。一族の間ばかりでなく、所衆(外城にいる武士)と地頭・城主などの聞にも同様のことが言える。室町時代伊東氏「外城」支配とじよう支配体制を「外城」支配と呼ぶことにしよう。この支配形態は、恐らく数世紀にわたってしだいに整えられたもので、伊東氏時代と島津氏のそれとでは、内容も規模も違っていると考えられるが、島津氏は近世に入の財部を伊東氏が支配するようになってから以後、島津氏が天正十五年に去るまでの、伊東・島津両氏の第5章ってもこれをさらに充実した形で取り入れている。もとは伊東氏や島津氏がしだいに戦国大名として成長し、支配する領地が拡大し、家臣団が増加するなかでつくりあげられた組織である。組織の内容そのものは、いまだに明らかでない点が多い。伊東氏が東国から日向に下向し、天正五年日向を追われるまで、どのような統治組織をつくり、武士団を編成統率したか、また農民たちをどのように統制支配したか、明らかでない点が多い。それは、中世日向の荘闘制度が崩壊して、封建的な領国支配の形成過'レゐ宮町程でもある。はじめは荘園における「職」(一般には荘園の領主・管理者がもっ諸権利などを指す)による複雑な土地・農民の支配関係に依存した同代から、しだいに武士化していく地方の有力者H国衆の被官化(家臣にすること)や譜代の家臣団を中心としてその組織を拡大強化することによって、戦国大名へと脱皮したものであろう。伊東氏の場合、十五世紀中ごろから、祐桑・祐国の時代の急速な領地拡大を経て義祐の時代までつくられた。それは完成したものとは言い難い。戦いによって領土が拡大し、家臣が増えると、その占領地の城(城というが、実際はその城を中心とした支配領域)を単位として支配組織ふもとをつくる。麓、また馬場などと呼ばれた城の周辺に所衆を住まわせ、麓集落をつくり、この所衆を一つの軍事集団として地頭日城主に統率させ、また平時にはこの所衆を中心に在地の支配を行い、一般庶民を支配した。伊東氏の領国伊東氏の領国支配を、最大版図であった義祐時代の支配組織支配組織について考えてみたい。日向記に「分国中城主揃事」「諸侍衆惣領一人撰事」「御出頭人数事」「御感状連判人数事」の項があり、これらが支配組織の骨格を示していると考えられるので整理すると第1表のごとくなる。伊東氏には「就御当家十三人之組衆」と呼ぶ譜代の衆があった。119長