ブックタイトルac_cho_0004_takanabe
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古代・中世国富・新田・冨田・那賀・広原・平田七O町を知行することになった。これは祐実の所領拡大によって、子祐国に分轄統治の形をとったものと思われる。第3編このころから飲肥・櫛聞の辺があわただしくなり、文明十六年十一月、飲肥の新納近江守忠続と対立した櫛聞の島津式部太輔久逸(伊作氏〉から伊東家へ救援があったのを機に、祐国は、都於郡・佐土原・宮崎・木脇・八代・三納・穂北・富田・財部・高城・塩見・日知屋・門川・山陰・田代・神門・入下・宇那間・水志谷・銀鏡・小河・雄八重・中ノ俣の衆に加えて曽井、加江田衆まで二八城の衆を率いて討ち入った。このとき弟祐邑は、清武・田野・石塚・穆佐・倉岡・飯田・内山・綾・紙屋・守永・須木の一二城の衆を率いて、北郷の郷ノ原を通り安国寺に討ち入ったという。このことは、祐固と祐邑の率いた四O外城衆の範囲が当時の伊東氏の軍役負担に応じた支配地であったことを示している。また祐国の統轄する地域は、その北境に県土持氏があるが、比較的安定した状態にあり、その中に財部も含まれていた。一方弟の祐邑の統轄する地は大方が、南の島津方勢力と接する地であった。また伊東氏の勢力は祐実・祐国の時代にほとんど最大領域に達していたとみて過言ではない。そして祐莞は子祐国と祐祐国支配下の財部邑の二人による分轄統治の形をとっていた。翌文明十七年、祐国は、県土持氏の臼杵へ出兵する。そして「臼杵衆数多討捕、野別府カミ城ヲ誘、八代駿河守ヲ地頭トシテ、人数=一百程指置テ御帰陣」とあるが、「野別府カミ城」がどこであるか明らかでなその年四月、祐莞は飲肥出陣の途中、清武中野にて没。さらに六月には、飲肥にて祐国も討死する。そのあと弟祐邑と祐国の嫡男六郎祐良との聞に惣領の地位をめぐって一族の内紛が起こった(野村の乱〉。結局、祐良(安祐〉が跡を継ぎ荒武三省ら武将の活躍に支えられて、ヰア祐は正内三俣まで進出し、いわゆる三俣千町を知行することとなった。世紀も改まり、しばらくは伊東氏にとっては安定した時期が続くが、かんばっ文亀三年、日向は五月から八月まで、大早魁に見舞われ、五穀が枯れて実らず人民の餓死が続出した。そのうえ、九月二十七日には、大霜が降り、さらに翌年二月には「大豆小豆降、是希代ノ珍事」が起こった。そして三月には、伊東氏の本拠である都於郡御屋形が炎上するという大異変があった。18伊東氏の内紛と大永三年(一五三ニ)十一月、三俣の陣に出陣中財部衆のす祐が庄内野々美谷で急死、その後を追うように、十二月、弟の祐渠が没するという伊東氏の危機の中で、跡を継いだめつのが若年の祐充である。その後見役として台頭したのが、外戚の福永氏であって、福永氏は、祐充・祐清(のちの義祐)・祐吉三人の外祖父として勢を張り、米良山・椎葉山にまで家人をつくり、守護方と称した。これに対して、譜代の家臣稲津重由を頭首と仰ぐ若キ衆(若輩)との内紛が起こり、若キ衆方の多くが都於郡を追われた。折しも庄内三俣の合戦で伊東方は敗北し、天文二年(一五三一ニ〉には祐充が早逝する。祐充の叔父祐武は福永氏に追って切腹させたが、この叔父祐武によって祐清・祐吉は都於郡を追われ、日知屋に逃れた。財部や日知屋・塩見・門川衆に支えられた祐清・祐吉と、都於郡の祐武が反目対立する。財部の地頭落合民部少輔は、祐清を財部に申し受けることを日知屋に相談したりした。そして荒武三省らの計らいで祐武を切腹させたが、その嫡男左兵衛佐を擁立する企てがあり、米良山二一か所の一授衆三、000人が左兵衛佐を擁立して、都於郡へ押しかけるという事態が起こった。この一挨