ブックタイトルac_cho_0004_takanabe
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記の記事が、人物・時代の点で非常によく合致していることに気づく。そしてあとで述べるが、「高綱」「惟綱」が、財部土持氏の没落時の当主ではあるが、伊東祐尭・祐国が「馬飼所」として新名爪六O町を与え下城させたというのもうなずける話ではなかろうか。)そのような協調の時代も一O年とは続かず伊東伊東氏財部に入るあがた祐奏は、財部土持氏が県方と同心し、逆心を起こし牛山に陣を構えたのに対し、康正二年(一四五六〉十一月二十二日、新納自由に押し寄せ焼き払い、土持衆も毛作原にて迎え討った。土持三河守金網は、平井倉ノ渡で討ち取られ、加制兵多数を失い土持衆は敗れた(小浪川ノ軍〉。翌長禄元年(一四五七)七月十九日、祐実は土持室町時代氏の居城財部を攻める軍をおこし、祐莞は鉢ノ久保に陣を構えた。いく〈ぴやりたびかの合戦ののち伊東軍は、討ち取った土持方の頚を鎚長万の先に貫いて、財部城に押し寄せ、これみよ、がしとかちどきをあげた。城中ではどよめきがあがったがすぐ静かになった。やがて城中から使いの僧が出て、馬飼所を賜れば下城いたすの旨が伝えられて、伊東氏は土持氏に(木城)「馬飼所」として新名爪(宮崎市)に六O町を与え、「財部ヲ始テ高城・(日向市)(日向市〉(都決・川南町)〈東郷町)(西郷村〉ハ南郷村)日知屋・塩見・門川・新名・野別府・山陰・田代・神門・十ケ所ノ城ヲ九月十二日ニ請取知行」(日向記〉する。この「十ケ所」の請取によって、長禄元年ごろまでの財部土持氏(一部は県(延岡〉の土持氏の範囲とも考えられる)の支配域がおよそ分かると同時に、新納院の中に臼杵郡内であったとみられる「山陰・田代・神門」などが含まれるようになったのは、財部土持氏の支配圏とも関係があったのではないかと考えられる。特に土持文書に財部土持氏の支流に「塩見股」とあげ、伊東氏支配以前に塩見(日向市)に財部土持氏一族があったのではないかと考えさせるからである。第5章日向地誌は、没落時の土持氏を「土持左衛門尉景綱」としていて、土持氏が財部を支配した時期を貞応二年から長禄元年までの二三五年間としている。長禄元年、財部を土持氏が支配する附代は終わりを告げ、伊東氏の時代に入る。伊東祐発は、落合民部少輔に財部「地頭職」(日向記)を与ぇ、これを治めさせた。以後、落合氏が地頭を世襲したようである。第二節伊東氏支配下の財部地方の寛正二年、伊東祐国は足利義政の御教書を得たという(日向記・伊東家系図)。祐畳間・祐国時代伊東氏先忠為一一褒美一日薩隅三ヶ国之輩v可為ニ伊東家人一但島津渋谷除之者也寛正二年辛巳三月廿五日円“HVHHH 4仇世出十伊東大和守とのへこの御教書については、疑問とする所もあるが、以後一五年に及ぶ日ひっ向の静誼は、祐尭・祐国の支配の安定を指していると思われる。文明六年八月ごろの、日向・大隅・薩摩の「行脚僧雑録」(薩落旧記前編二)(ママ)として、「山東仁伊東大和守祐奏、同九郎祐園、佐渡原、土持県」とあ(回)り、その「山東城」として「穆佐・池尻・曽井・宮崎・清武・内野・山之城・木之脇・阿屋・木城・都於郡・岡富・財部・竹篠・八代・平賀・おとな塩見・比知屋・門川・新田・田嶋」とし、伊東氏の「老名」として「稲津・野村・垂水・落合・宮田」をあげている。117文明十三年、祐尭の子祐国は佐土原を知行し合わせて、三宅三O町、