ブックタイトルac_cho_0004_takanabe
- ページ
- 20/36
このページは ac_cho_0004_takanabe の電子ブックに掲載されている20ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ac_cho_0004_takanabe の電子ブックに掲載されている20ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ac_cho_0004_takanabe
古代・中世円福寺閉山(久意上人〉墓碑銘第3編る。太平寺はその寺伝によると養老三年の建立とあり、本尊は阿弥陀仏であった。中興開山を無外円照大和尚とし、土持氏没落のころまで九代の和尚の名がみえる。土持氏の菩提寺で、土持氏が寺領などを寄進していたようである。また土持氏没落後は伊東氏・島津氏・秋月氏と保護を受け、廃仏段釈によって廃された。「寺社帳」によると土持氏が建立した寺という大字南高鍋宮田の水徳山円福寺は「応永年中土持家建立」とあり、本尊阿弥陀仏であった。開山の久意上人の墓碑に「応永三十畏卯天七月十八日開山久意阿弥陀仏位」とある。当時は有力な地方武士層の間で、阿弥陀仏信仰が盛んであったらしく、土持氏も念仏の信徒ではなかったかと思わせる。また日置(新富町)の集慶山首同福寺(開山珍山祐和尚応永四丁丑年六月廿八日寂・本尊阿弥陀仏〉や野別府(都農町)の報思山徳泉寺(開山楽甫嘉吉年中建立・本尊薬師如来)などの建立もこの時期のものであり、土持氏の勢力が及ぶ範囲とも考えられる所である。もひろげまた神社では「裳広解大明神木地十一面観音」の記載に「永享十三辛酉年(一四四一)三月十七日(兼〉田部金綱再興大工藤原為久鍛冶藤原重宣代長友紀伊」とあり(寺社帳)、財部土持氏四代金綱の再興であり、これ以前に既に毛比日計神社は存在していてこの付近に集落もできていたものと思われる。116毛比呂計神社土持氏と伊東氏十五世紀の争に入ると抗伊東氏と土持氏の日向中原をめぐる争いは激しくなるが、伊東氏にとっては、南の島津氏の日向山東への進出が急となって、その限りでは、土持氏と争えない状況にあった。伊東氏は島津氏の日向進出に対して、「土持殴同意」で、島津氏に対抗する。したがって伊東氏にとって、島津氏との聞に緊迫した状態が続いているかぎり土持氏との確執はあり得ない。「、氷享五年霜月廿七日、土持殿ノ姫君祐奏公へ御入輿」の関係も生じ、また文安二年の「祐実公土持同心ヲ以テ門河一一押寄セ」、同九月八日、「土持県同心ニテ穆佐放ヲ退治」し、また宝徳二年十月、翌年五月の犬追物手組之日記に「土持殴御越之時興行」としている。また、祐実の「嫡女ハ土持腹則土持左衛門尉太郎莞綱ノ妻ト成玉フ次男六郎祐国左衛門尉一一任シ後家督ヲ受玉フ、土持弥次郎是綱ノ聾ト成玉フ」と土持氏との縁組みによってその和を図っている。この「土持左衛門尉太郎莞綱」は財部土持氏の六代「高綱」と考えられ、また祐国の婿となった「是綱」も「惟綱」ではないかと思わ(このようにみると、さきの「寺社帳」の財部土持氏系図と日向れる。