ブックタイトルac_cho_0004_takanabe
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城の一角であったのであろう。文二年(一三五七)」の年代にほぼ近い年代であり、直綱を財部土持氏の祖とすると、この時期に土持氏の一族が財部に本格的に居館を構え、その居館が財部城と呼ばれ、その土持氏を「財部股」と呼ぶようになったのではあるまいか。そしてその居館は、高鍋大明神の祭られる一角、財部(高鍋)文明十四年に記されたという「山田聖栄自記」に「愛土持冠者好封と而土より生したりし仁や、日向園開発之人と承伝候也。土持三人、県・(宮)岡留・財部是也」と見え、土持氏が土着の者であることを述べ、文明期には既に、財部土持氏が滅びて十数年を経ているが、土持氏は県・岡留・財部の三家であったと述べている。薩藩旧記雑録に所収されている土持文書の中で、応安三年十月十四日の足利義満の軍勢催促状(細川頼之在判〉が土持三河守にあてられていることや応安五年五月二十日の九州探題今川貞世(了俊)の軍勢催促状が土持左衛門太郎(親綱カとしている〉あてになっているなど、応安三j六年のものが六通あり、土持三河守あてが、そのうち三通あるのも、財部二代親綱が三河守を称していることと併せて輿味、深いところである。室町時代第5意ともあれ、財部土持氏は、この系図によると直網・親綱〈三河守〉朝綱(甲斐守)・興綱・兼綱(三河守)・高綱・惟綱とあるが高綱が六代日で、寅年(長禄二年)に没落したことになっている。その問、五代兼綱(性海金公〉は嘉吉二年(一四四二)三月十二日の没となっており、またその弟武綱(花翁栄公)は文安三年(一四四六)五月二十四日の没となっていて、次の高綱の没落年代とも無理がない。さかのぼって、初代直綱・二代親綱の時代を応安五年ごろとするのも無理がないであろう。四代興綱が、没落後の延徳三年(一四九一)十一月二十八日、菖蒲池天神宮に祭られるようになったのも、伊東氏の支配するところとなった当時においても、土持氏が、土地の人々に深く結びついていたことを考えさせる。また「寺社帳」の「曹洞宗養国山大平寺」の項に一、過去帳有之土持家代々覆山蔵公庵主見司参河守田部産調四代寺領寄附貞綱兼綱嘉吉二壬戊年三月十一日卒高綱是ハ兼綱之養子一花ハ甥也惟綱伎十一四綱以上六代山総土持家とあり、さきの系図と若干異なるが、いずれも六代で没落したようになっている。高鍋町内に現在、土持氏の時代の痕跡を見ることのできるものは少ないが、大字南高鍋字太平寺の山腹にある「土持墓地」の六基の墓石が土持氏に関係あるものという。このうち無縫塔の一つは土持兼綱のものといい、碑銘には「性海金公庵主嘉吉二年三月十三日」とあり、もう一つは土持高綱のもので碑銘に「梁山棟公大禅定門」と読め、これらは高鍋町指定文化財となっている。この土持氏累代の墓石の発見の経緯については、「土持財部家史実土持氏時代の遺跡15調査記録」(高鍋史友会報第三号昭和四十七年二月〉に詳しく述べられてい