ブックタイトルac_cho_0004_takanabe
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第五章室町時代第一節土持氏支配下の財部地方新納院地頭職室町時代南北朝争乱期の新納院は、宮方、武家方の勢力がそ持氏れぞれ割拠し、争奪の地となっていたようであるが、その両者のすう勢を決定づけたのは地方土豪層の成長であった。さきにも述べたが、建武二年、足利尊氏は島津時久に新納院地頭職をあて勲功として宛行った。そして翌年四月には、高師直が、時久の代官に、日向守護代である土持栄西(栄幽ともする〉の権限でもって地頭職を渡させている。さらに八月二十四日には、師直が畠山義顕に、時久の所領である新納院に違乱がないよう命じている。さらに十二月二十三日には、荘園領主(領家)である赤橋氏(尊氏の室〉の雑掌明眼も義顕に書を送って新納院内宮頚村(新富町)地頭職に途乱がないように求めている。その中に「今度始御代官違乱之由被申候」とみえ、新納院の支配をめぐっては、代官層の違乱によって納まるべきものが納まらず地頭・領家ともに困っていたようである。この代官層は在地の土豪層と考えられ、領主層もこれら土豪層の確実な掌握なしには地方支配はできなかった。日向記に応永六年十二月十八日、「山東所々一挟起」としているが、この一挨勢力が南北朝争乱の中で成長してきた在地勢力であった。この勢力を掌握するには、土持氏のようにこの地に成長した有力者を利用することによって可能であり、土持氏が守護代に任ぜられていたことには大きな意味を持っている。正平五年には畠山義顕が島津時久のょっと土第5章た新納高城を攻め落とし、更に延文二年十二月十三日、一色範親(刑部少輔)は土持冠者に「兵枚料所」として新納院地頭職を与えている(薩務旧記)。このことによって新納院地頭職は土持氏の手に移り、土持氏が一段と支配力を強めたものと思われる。南北朝争乱の末期頃には土持氏の一族が新納財部(高鍋)に本格的に居館を構えていたようである。日向郷土事典に「伊東の旧臣垂水古系に、貞応二年笑未、将軍頼経より(ママ〉土持冠者栄妙に般肥・三俣・臼杵・財部の四カ所を賜ふ」と引用してある。また「新納忠勝間書(旧地ハ類緊九)には「(新納)時久、日向園新(号)(守〉(奪)納之高城に居住、在名によって新納とかふす。其留主に彼所者伊東うはいとり候。此時貞久様為御代在京、其後薩園高江を貞久公より被v下住す。其以後救仁院知行。」とあり、島津時久の留守中に伊東氏が新納高城を奪い取ったとしているが、これは畠山義顕にくみした伊東氏が正平五年畠山氏とともに新納高城を攻め、島津時久を追ったことを述べている。したがって一時期、財部も畠山・伊東氏の支配下にあったことが考えられる。その後、さきに述べた一色範親が、土持冠者に新納院地頭職を兵線料所として宛行い、これ以後、土持氏は財部を中心に新納院を支配したと考えられる。土持氏が新納院の中心とみられ、また古代からの交通の要衝であった高城からなぜ財部に拠点を移すのか明らかでない。南北朝の争乱の展開ゃ、伊東氏との勢力関係など考えられるが、のちに述べるように、この土持氏財部に本拠を構える財部地方が「郡司方」と呼ばれていた時期があったように、新納院郡司を世襲してきた土持氏と深いかかわりを持つところであったこと、経済上、軍事上にも有利な点があったことによると思われる。13