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概要

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武家方の分裂と興国元年(二ニ四O〉から正平五年(一三五O)日向の形勢ごろまでの約一0年聞は、後醍醐天皇が宮方の形勢ばん回策として、懐良親王に論旨を下し、九州経営をゆだねられた。日向では高千尾(穂)荘の柴原氏や三田井氏が荘民などとともに宮方を支持している。武家方では、この時期に内紛が生じ尊氏・執事高師直に対して尊氏の弟直義・子直冬の対立が激化し、その勢力が二分された。日向園内でも、二つの武家方(尊氏・高師直と直冬〉と宮方の三つの勢力に分かれ抗争が展開した。まず足利直冬には、穆佐城にあった畠山義顕と伊東氏(日向記によれば、祐持は貞和四年七月七日、京都において、役。同年、子の祐重が都於郡に入ったという)がついた。これに対して尊氏方には畠山義顕と対立が深まり抗争していた島津貞久と土持氏がついた。しかし島津貞久も、正平元年には直義の命によって、宮方に寝返った伊集院忠国らを討伐し、九州のことは一色範氏にゆだねた旨を伝えられて(薩藩旧記)、必ずしもその態度は一貫していなかった。正平五年、畠山義顕は、島津時久のよった新納院高城を攻め落とした。南北朝時代ハ畠山義顕)「(前略)此傑去観雁元年、匠作様稿v奉v属ニ左兵衛佐殿一、於島津近江守時久城一一一一剛一回数月致ニ合戦一候、追ニ落彼城一候、迄一一子翌年一、議為ニ御敵一之篠無二相違一候、其後匠作進退不ニ存知一候」(島津文書)とみえる。島津時久の新納院の拠点を「時久城」としている。くにいん尊氏は、新納院の代わりに救仁院を時久に与えたので、救仁院を領しにれていた稔井頼仲は宮方に属し、両武家方と対立した。正平六年(二二五一)から正平十五年(一三六O)ごろの日向は、宮差コ遣軍勢第4章方が勢を盛り返した時代である。それは武家方の分裂抗争が激しく、武家方があいついで一時宮方勢力と和することがあったからである。畠山義顕は島津貞久と対立しながらもその勢い盛んであった。正平七年には、足利義詮は一色範氏らに畠山義顕を攻めさせた(隆一添旧記)が、子宗泰は島津氏久の軍を破っている。しかし、義顕がくみしていた足利直冬も、この年、懐良親王に九州を追われ、上洛している。また正平十三年には、畠山氏も肥後菊地氏に穆佐城を追われ衰退する。九州探題今川建徳元年(一三七O〉から弘和三年(一三八三)ご貞世と日向ろまでの聞は、今川貞世(了俊)を中心に展開する。建徳二年今川貞世が九州探題として赴任する。応安七年ごろには九州の将士、か今川貞世に応じ、南朝の勢いも圧迫される。日向では畠山氏の、没落によって、島津氏が武家方として勢を強め、九州探題今川貞世に従った。伊東氏もまた今川氏に従ったが永和元年(一三七五)、今川貞世が少弐冬資を肥後国水島で暗殺したことから、島津氏久は、南朝方に応これじた。幕府は大隅国守護島津氏久、薩摩国守護島津伊久を罷免し、今川貞世に兼任させた(島津国史)。島津氏は積極的に日向都城進出を企てるが、永和三年には今川氏に降ったために、日向においても今川氏の威令が届くようになった。弘和三年(二一一八三)、九州における南朝方の中心であった懐良親王が没すると、宮方は衰退する。日向では、今川貞世が穆佐城に入るが南の島津氏に対して、中央部では伊東氏が勢力を伸ばしつつあり、土持氏との妥協共存の中で、島津氏と対立を深めるが、日向中原での伊東氏の勢力拡大は、土持氏の存亡にもかかわることで、やがて土持氏は島津氏に接近していくことになる。11日向記は、この時期のことを次のように述べている。「先年治部太輔