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概要

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古代・中世第四章南北朝時代第3編南北朝争乱と新納院の動向十四世紀の南北朝争乱期の日向の形勢は非常に複雑である。その理由は、この争乱六O余年のうち、宮方(南朝)と武家方(北朝・足利尊氏)の基本的な構図のまま展開したのではなく、乱の経過とともに武家方の分裂や、それぞれを支持した土地の武将なども、一族の事情によって、支持するところが必ずしも一貫していなかったからである。日向を中心としてみた場合、総じていえば、惣領家伊東氏と日向の土豪土持氏が終始武家方であり、その伊東氏も、さきに下向した庶子家は宮方を支持しているのである。伊東祐持下向と日向での争乱は、建武二年ごろ、伊東家惣領の祐南北朝争乱持が、足利尊氏の意向を受けて日向都於郡に来たころに始まる。祐持の下向については、宮方蜂起によって「日向国ノ事ハ先祖ヨリ伝来ル所ノ領地有由、弥凶徒ヲ静メ、安泰一一治メ可v申旨被ニ仰出一、都於郡院ヲソ此度忠節(北条高時の蜂起)ノ為恩賞賜リケリ(中略)小山田御先-一日州一一サシ下シ打続キ祐持モ下向シ玉ヒテ彩シキ粧ナめぐらリ、即都於郡ノ城ヲ取構堅固一守リ国中ノ武略ヲ回シケリ(日向記)」とある。また延元二年、同じく足利尊氏によって一族の武将畠山義顕(直顕)が、日向国大将軍として穆佐城(高岡町穆佐)に下向した目的は、尊氏が建武中興の功績に対して後醍醐天皇から賜った国富圧と、その妻赤橋氏領となった穆佐院、そのほか新納院宮頚などを宮方から守るためであったという。110建武二年から延元四年ごろまでの約五年間は武家方の伊東祐持や土持宣栄と宮方の肝付兼重(三俣院高城)・伊東祐広(諸県郡八代城)・野辺盛忠(櫛間城)などとの抗争があった。更に肝付氏には富田城の穂北郡司平島三郎、宮崎放の図師随円その子一坪六郎慈円、浮田の瓜生野氏(跡江)がくみし、伊東祐広(伊東庶子の木脇氏)には益戸行政(新納院石城日石河内)・田島堤氏(伊東田島氏の支流で宮方に味方した伊東祐貞・祐勝兄弟の流は田島堤氏と称する)などの在地勢力が味方し、日向平野部で、宮方の勢力が強かった。これに対して、足利尊氏方の伊東祐持は、土持新兵衛尉宣栄とともに、宮方と各所で戦うが戦果はあがらず、建武三年五月十二日には石城(木城町石河内〉によっていた益戸行政、同秀名、石河内弁済使等が新納院岩戸原彦尾(木城町岩戸原)で、土持新兵衛尉宣栄の軍と戦っていて、この時期、新納院は宮方と武家方の争奪の場であったようである(土持文書)。島津氏と新納院尊氏は畠山義顕(直顕)を日向穆佐城に下向させ(日向記は建武四年四月十四日とする)、島津貞久の協力を得てようやく、武家方の威令が届くようになった。新納文書によれば、これよりさき建武二年十二月十一日、島津四郎時久に「日向国新納院地頭職」を勲功の賞として与え、翌=一年四月には、日向守護代土持氏によって時久の使者に地頭職が渡されている。しかしその地頭職の執行には因難があったらしく、のちに尊氏の執事高師直が畠山義顕に、「濫妨の由其聞候、殊忠之仁候、無為可v被ニ沙汰付一候」と違乱がないように命じている。新納時久はこの後、新納高城に入ったようである。