ブックタイトルac_cho_0004_takanabe
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字宮頚に当たるか〉、穆佐院、真幸院は図回帳にみられる「寄郡」り、これらの地が、荘固化されながらも、公領の性格を本来持っていた所であり、この時期に至るも国司の得分が残っていることを知りうる。十六世紀に現在の臼杵郡東郷町、西郷村、南郷村が新納院に入っていたことは既に確認されている。西郷村では、田代の大雄寺境内の六地蔵塔に「、氷正十八年(一五一一)」「日洲於新納院田代地蔵尊像」とあり、東郷町では、山陰羽坂硯野の小洞にあった党鐘銘に「天文十八年(一五四九)」「奉施入日州新納院山毛保冠毅三所大権現」とみえる。南郷村では、神門借屋の供養碑に「慶長九年」「愛日向国新納院神門之内借屋村」とあるが、いずれも、「東郷・西郷・南郷」の文字はみられず、これらの呼称は明治二十二年市制・町村制施行に始まるようである。さきにみた「嘗国在国司所職所々注文」の中の「山毛分」が、東郷町山陰の究鐘銘「山毛保」であるとすると(「保」は国街領にみられる)、文保二年当時既に「山陰」は新納院内に含まれていたことになり、新納院に含まれるようになったのは、それ以前ということができる。であ鎌倉時代新納院鎮守木城町比木の比木神社は、百済王を祭ることと、「神かどみゆきおきとまわ比木神社門御幸」の神事で有名であるが、高鍋町にも「御里廻り」として縁が深い。十月二十七日(古くは九月二の申から一一一日間〉の御巡幸神事で、第一日に上江の川田神社i高鍋城j下町1八坂神社i火産霊神社j本町1宮田神社(泊〉、第二日は宮田神社から太平寺1持田1切原1下鶴八幡神社j田畑菅原神社(泊)、第三日は菅原神社1高城まちざいでみせ町j高城在1中川原1出店j中椎木j岩淵i比木社の巡幸である。このようなお里回りのもとになったのは、比木神社が、高鍋城下から離れているにもかかわらず、古来「新納鎮守」として崇敬されていたことによ第3章り、その新納院内の御巡幸をもとにしているものではなかろうか。特に「神門御幸」は、木城町j川南町j都農町j美々一津1幸脇j富高財光寺1塩見など日向市内を経て東郷町山陰1羽坂j坪谷1塚ノ原1神門と巡幸あり、各所で神事が行われる。旧暦十二月十四日から二十三日までの一0日間の神事であるが、この巡路は尾鈴山(新納岳とも呼ばれた〉の山麓をめぐる、小丸川下流の比木神社から上流の神門神社、それに耳川下流域の東郷町山陰神社を結ぶ形である。この範囲もまた「新納鎮守」と無関係ではなさそうである。なお豊臣秀吉によって天正十六年八月五日に宛行われた秋月氏領の中の新納院は、東郷町・西郷村・南郷村は含まれていない。このときの「新納院三OO町」は、高鍋城付地を指し、耳川北岸の幸脇村から、南は新富町三納代までを指している。江戸時代には更に狭義に使用され、高鍋城付地は野別府と新納院(高鍋町・木城町の一部・新富町のうち日置・三納代)に分けられた。109