ブックタイトルac_cho_0004_takanabe
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れる。親能の妻は頼朝の娘三幡の乳母でもあった。頼朝の死後、頼家・実朝に仕え、六波羅在任中に京都で没した。彼の子能直は豊後大友氏の祖であり、以後も九州と深い関係を持つ。中原親能が新納院地頭となっても、彼が直接日向に下向して支配したわけではない。彼の場合、日向には新納院一二O町のほか、島津荘寄郡として臼杵郡に「新名」「浮目」の二か所一二O町と宇佐官領一円荘の「宮崎荘」「調股」の三六町の五か所、合計五五六町の地頭である。これは日向圏内の約六・九%に当たるが、なかでも宮崎荘や新納院など日向の中心部分に幕府の要人を地頭として置いたということに、幕府にとって意義があるように思われる。蒙古襲来(文、氷・弘安の役)以前は幕府から九州内の地頭に任命された場合、御家人がとった支配方法には三つがあった。1惣領が白から鎮西に下って、庶子に分配管理させる方法1惣領は関東にあって、庶子を下し配分支配する方法(あとで述べる伊東氏はこの方法である〉鎌倉時代1代官を下し支配させる方法新納院における中原氏の場合、1や1のように日向に惣領や庶子が下向した様子はうかがえない。中原氏の場合、さきにも触れたように豊後国とのかかわりが深く、子能直が大友氏の祖であるように豊後に重点を置いたようである。したがって、郡司をはじめとするこの地方の豪族を代官として、その任に当たらせたことが考えられ、その代官として考えられるのが土持氏であり、のちの財部土持氏の祖先もこのような形で、この時期には新納院とのかかわりを持っていたのではなかろうか。第3章中原氏と同様に日向と深い関係を持ち、のちに高鍋地方をも支配するようになった伊東氏がある。その祖は伊豆の伊東を本貫の地とする工藤氏である。図田帳に「地頭故勲藤原左衛門尉許制」としてあるのが、伊東祐経とみられている。伊東氏の家譜である「日向記」よると、祐経は建久元年正月二十六日に日向地頭職に補せられたというが、園田帳には宇佐官領四か所(牒荘・富田荘・田嶋荘・諸牒荘〉の合計七五O町の地頭としていて、これは日向圏内の約九・三%を占める面積である。日向記は、この四か所のほか児湯郡の内にもあるとして、合計七三O町としている。祐経は源頼朝のちょう愛を受け、鎌倉幕府の記録吾妻鏡にもしばしばその名がみられる人である。彼は頼朝が行った富士のすそ野の巻狩りで、一族内の怨恨から、建久四年五月二十八日、曽我兄弟に討たれた。したがって図回帳が作成されたときは既に亡くなっていたが、彼が日向圏内荘園の地頭であったことは、のちの伊東氏と日向のかかわりあいからみて否定できない。祐経の嗣子犬房丸(祐時)ものちに日向地頭織に補任され、その庶子のうち、祐明(田島殿)は田島荘に、祐景(門川股)は県荘と富田荘に、八男祐頼(木脇殿)は諸県荘のうち木脇(絹分)にそれぞれ下向し、伊東氏発展の基礎をつくった。工藤祐経と日向このようにして、鎌倉幕府は守護や地頭を配置することによって、その支配力を浸透させようとし・たが、しかし日向には、日下部氏や土持氏といった古代からの豪族がいて、国街・郡街に関係し、また荘園領主とも、深いつながりを持っていたので、これら東国からの新入りの御家人たちとの確執が起こっている。例えば延岡市のふf山八幡神社の洞官であった土持氏(県土持氏の祖とみられる)と、県荘の地頭となった伊東氏(門川氏)との聞の紛争は日下部氏と土持民107