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概要

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古代・中世第三章鎌倉時代第3編鎌倉幕府と新納院鎌倉幕府の建久二年(一一九二)、源頼朝が征夷大将軍に任ぜら九州支配れ名実ともに鎌倉幕府は成立するが、鎌倉幕府にとって最も心配される所は九州であった。幕府組織の核となる御家人組織が最も弱かったからである。だから幕府は、いろいろの組織の中に関東の御家人をあて、九州に下向させて組織の強化に努めた。幕府は古代から九州支配の中心機関であった大宰府を掌握し、鎮西守護を置いた。文治六年(一一九O〉には天野遠景を置き、建久四年(一一九一二)から同六年には武藤資頼(少弐氏)と中原親能、そして更に建久八年(一一九七)には守護の任務を分割して、筑前・豊前・肥前は武藤資頼が、筑後・豊後・肥前は中原親能が、大隅・薩摩・日向は島津忠久が分担支配した。この体制のもとで、さきに述べた「図田帳」を国街の在庁官人(地方の有力者から選ばれた国街の役人で日向国の図回帳に士、「権介日下部盛直・権介日下部行直」などの名がみえる)に命じて作成させた。そして国ごとに置いた守護とともに荘園や公領に御家人から選んだ地頭を置くことにした。このようにして幕府は、支配力の浸透に努めたのである。守護の任務は、はじめそれぞれの国の御家人の統率と警察・軍事をつかさどるものであったが、時代とともにいろいろの権能が加わって、室町時代には政治的な面での権能を強く持つようになる。日向国の守護については、確認されているところでは、島津忠久が建(日向国図回帳が作成された年で、この人の名が図「地頭」として島津荘一七か所にみえ、さきにあげた島津荘内「院」のうち「新納院」のみを除いて六か所の地頭である)から建仁三年(一二O一二)の聞に任命され、建仁三年には比企能員の乱に連座してその職を没収されている(吾妻鏡)。以後の日向の守護については、諸説があるが、鎌倉時代後半には、日向国の守護は北条一門の手にゆだねられていた。地頭は、幕府が各荘園・公領に置いた管理者であるが、その任務は荘園の年貢を農民から集め、それを荘園領主に納めたり、守護の命を受けて荘園内の治安維持や土地の管理に当たるものであったが、その任務に対する特別の収入もあり、島津忠久の例にみられるように、守護の中には、地頭を兼ねる者が多かった。地頭は幕府の権力を現地で執行するものであり、荘園領主にとっては必ずしも歓迎すべきものでなかったために、なにかと紛議を起こした。久八年(一一九七)回帳の中に、106なかはらちか今の高鍋町が含まれていた新納院の地頭には、中原親中原親能能(一一四三j一二O八)が任ぜられている。平安時代後期の公卿であり、漢学者でもあった大江匡房(一O四一r}一新納院地頭一)の子孫であるが、明法博士中原家の養子となって中原姓を称した。源頼朝に招かれて鎌倉に下り、その腹心となって弟の大江広元とともに草創期の幕政に参与した。元麿元年(一一八四〉、公文所の寄人となり、源義経に従って上洛し、翌年、源範頼に属して豊後に赴いた。九州との関係はこのときからと思われる。文治二年(一一八六)、京都守護に任ぜられ、政所の公事奉行などを経て建久七年(一一九六〉、鎮西守護人となった。新納院地頭となったのは、文治二年(一一八六)から建久七年ごろと思われ、特に鎮西守護人となった建久七年に近い時期と考えら